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2008年9月29日 (月)

講師は落語家?それとも漫才師?

ご存知のとおり、落語家は落語を演じて視聴されることを職業としている人です。噺家(はなしか)は「落語家」の古い表現ですが、古典を演じる人は「噺家」と呼ぶ方がピンと来ます。その身分は「見習」「前座」「二つ目」「新打」からなりますが、この区分けがあるのは、東京だけで、上方では存在しないそうです。

いずれにしても、師匠と呼ばれる人に弟子入りをして、落語のネタを覚えて一人前になることから、研修の講師の先生は、よく「落語家」に似ているといわれます。特に、同じプログラムを同日実施で、複数の講師の先生を依頼した場合、同じテキストを使って、同じ語り口をされる講師の方もいらっしゃいます。

そこには、まるで物まねのように、カリキュラムが進行していくのですが、多くの場合、受講生の反応を読み取ることなく、型どおりの講義と実習が進められます。完成度の高いプログラムでは、まるで古典落語を聞いているように、上手な先生は、時間どおり、つつがなく、研修を終えられるのです。だから、講師の先生は、まるで落語家みたいだと、いわれるのです。

一方、漫才は、主に2人組で披露される演芸・話芸ですが、通常、ボケとツッコミの掛け合いの妙なので笑いを提供します。その役割分担も必ずしも固定的ではなく、達者とされるコンビほど、流れによって自然にボケとツッコミが入れ替わる展開をします。漫才師は、自分たちで作ったネタ、あるいは作家が書いた台本を繰り返し演じる中で、次第に練り上げ、自分たちに合ったスタイルの演目に仕上げていきます。ネタ通りに演じるだけでなく、相方の出方をみて、またお客の反応に合わせて、演じ方を変え工夫を重ねます。

ベテランの漫才師は、無限のバリエーションで臨機応変に演じます。それを「盗む」ことも、また、お客に飽きられないよう、普段から世の中の動きを研究し、ネタに取り入れる努力を強いられます。華やかな反面、実力勝負のきびしい世界です。漫才師は、生き残りを賭け、少しでも上を目指して奮闘します。その意味で、私は講師の先生は「漫才師」だと思うのです。

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2008年9月22日 (月)

雑草という名の花はない

「雑草という名の花はない」というのは、確か昭和天皇の言葉と記憶しているのですが、道端の名も知れぬ花に、何気なくちょっと足を止めて観察する、美しい姿勢が目に見えます。大覚寺の僧正さんの書にあった「月は美しい、花も美しい。それに気づく心が美しい。」いうのを思い出します。

私は、研修の講師の先生にも、この姿勢を求めたいです。どんなに内容の充実した講義であっても、受講生ひとり一人の理解度や習得度を見てほしいのです。ときどき、受講生に関心をあまりお持ちでない先生に出くわします。講義の内容もさることながら、演習を多く取り入れ、受講生を巻き込む技術は素晴らしいものをお持ちなのに、なぜか一方的に研修が終わったという印象が残るのです。

研修が終わってから、受講生の理解度や習得度について伺うと、全体的な印象ばかり述べられ、具体的にどの部分がよく理解できて、その部分がいまひとつピンと来ていなかったとか、という問いに対しては、答えてくれないのです。受講生は喜んでいたから、いいのではないか、とおっしゃるのでしょうが、受講生は、あたかも、素晴らしいショーを見た後のように、「ああ、楽しかった。いい話を聞いた。」で終わっているのです。

このような先生は、自信満々で登壇され、受講生は、知らないことばかりだろうから、教えてやっているのだという態度で研修に臨まれがちです。もちろん、受講生から学ぶとうい姿勢はみじんも感じられないのです。不特定多数を集めてなされるオープンセミナーならいざ知らず、企業内の集合研修では、もっと、受講生を見てもらいたいのです。

受講生は「雑草」かも知れませんが、一人ひとりは「名前」を持っているのです。

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2008年9月15日 (月)

講師の自己紹介

講師の先生のプロフィールは、研修当日のスタート前に受講生に配布するのが一般的ですが、いざ、研修が始まると、そのフォローのやり方は先生によってまちまちです。それ以上の略歴について説明する人、しない人。研修の途中で、折にふれて、経験談(特に失敗談)で自己開示する人、しない人。

理想的には、配布されるプロフィールは簡略にできていて、それに肉付けをして話されるケースです。その場合も、事前打ち合わせで得た、その会社の内容の情報に基づき、受講生の業務に関連したお話をしていただけるとありがたいです。

先日も、プロジェクトマネジメント研修で、現役のコンサルタントの方に講義をお願いしたのですが、その先生は、ご自分の略歴を紹介されたあと、20数名の参加者ひとり一人から、簡単な自己紹介を求められ、いままでに、プロジェクトの経験があるか、それはどんなプロジェクトなのか、いま関わっているプロジェクトはどうか、きょうの研修に何を期待してきたか等を、聞き出されていました。

そして、研修が始まると、それぞれが抱えている課題をカバーしながら、プログラムを進めてゆかれました。さらに問診した受講生の言ったことを覚えておられて、本人に関連する事項では、その際に、掘り下げた質問をして、理解を深めておられました。まさに、「質問」というのは、「本質を問う」ものでした。

あとで先生に伺ったのですが、この先生の自己紹介は、ご自分でまず自己開示をしたのは、そのあと、受講生にもできるだけ自己開示をしてもらって、研修を実のあるものにするためのものだったのです。感服いたしました。

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2008年9月 1日 (月)

コメントができない講師

プレゼンテーション研修など、受講希望者が多い場合は、クラス分けをします。予算が許せば、少人数で、何クラスも同時開催をして、ベンダーさんから複数の講師の先生を派遣してもらいます。予算の都合がつかないときは、大勢であっても、メイン講師の先生が、全体を受け持ち、実習のときだけ、アシスタントの先生が担当することがあります。

通常の講座での同時進行のクラス分けでは、ベンダーさんが、ほぼ同レベルの講師の先生を派遣してくれますので問題ありませんが、ことプレゼンテーションや社内トレーナーの研修となると、ちょっと事情が変わってきます。というのは、プレゼンテーションの指導をいただいたあとに、講師の先生が、受講生に対してその発表ぶりのコメントを出す場面があるからです。

良かった点、改善するともっと良くなる点を指摘するのは簡単なのですが、講師の先生の技量によって、ずいぶん違った印象を与えます。「講師の技量」というのは、テキストに沿った内容をいかにわかりやすく伝える技量があっても、受講生に対するコメントが、的確でなければ、技量が備わっているとは思いません。

的確なコメントを出すには、受講生ひとりひとりをよく観察する必要がありますし、講師としても受講生からも学ぶという姿勢がないと、そのコメントに納得できない受講生が出てきます。コメントが的確でない先生をみていると、コメントのパターンが決まっていて、その本人に対して具体的に指摘できていないのです。

クラス分けの場合には、講義内容は、ほぼ同じ高い水準であっても、コメントの内容となると、レベルの違いが歴然と差がでる場合があり、注意を払っています。

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